人文学と法学、それとアニメーション。

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まさに「価値観のアップデート」?──『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』評註

0.「価値観のアップデート」という語が見えなくさせるもの

 

私は差別禁止や多様性の場面で語られる「価値観のアップデート」という言葉が嫌いである。なぜならば、もとから加害性があった(ダメだった)のに、単に自身の鈍感さでそれに気づいていなかったという事実を覆い隠し、正当化することに繋がるので。

 

もっとも、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の原作はゲームである。そして、現在ゲームは、まさにインターネットか

ダウンロードしてアップデートするものである。

 

ここでは「アップデート」という語を使うに相応しいといえる。

 

よって以下では「価値観のアップデート」という語を使う。

 

1.価値観のアップデート

 

(1)マリオの位相

 

姫が()王じゃなくていち配管工(労働者)をパートナーに選ぶ展開は、どう考えても反封建主義だし、社会主義ないし共産主義である。

 

そしてマリオは、「背が小さい」配管工、家族や元上司にバカにされる配管工、武力ではなく猫力や狸力で筋肉バカ・ドンキーコングに勝つ配管工、キノコが食べられない配管工であり、そこに「男らしさ」はない。さらにピーチ姫に愚痴や本音こぼす「弱い人間」である。

 

(2)闘う姫

 

またピーチ姫は、かつての(原作の)マリオvsクッパの男同士の闘いのトロフィーとしての囚われの姫のポジションから解放され、武装し、ピノキオたちを身を賭して守る「自分で闘う姫」である。

 

マリオがいなくたってネ!

 

(クッパに囚われるのはピーチではなくむしろルイージとペンギン、サルである!)。

 

(3)結論

 

以上からうかがえるのは、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023)は、かつての原作の価値観を、まさにゲームのダウンロードとバージョンアップに相応しくアップデートした、ポリティカルにコレクトネスな価値観を提示している映画である。

 

2.フィクションによる現実のアップデート

 

そして、映画の中の現実からし(映画の中のゲームのピーチやクッパがいる世界と同じく)3Dであり、全く動きに違和感がない。

 

そして、さらに重要なのは、映画の中の現実(ブルックリン)とピーチやクッパがいる世界がフラットに繋がっており、マリオとルイージがあちらの世界に行けたように、ピーチやクッパもこちらの世界に来れる。それが3Dである!

 

このような、現実とゲーム(フィクション)のフラットさを踏まえると、1で述べたような「アップデートされた価値観」を提示する『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』というフル3Dアニメ映画(フィクション)は、フィクションによる現実の書き換え(あるいは価値の浸潤)をも目論むものではないだろうか。

 

3.子供向けアニメ

 

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』公開初日(2023428)は、幅広い客か観に来ていた。親子、カップル、友人たち、単独。その中でも、やはり親子が目立った。

 

その子供たちに対して、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は「アップデートされた価値観」を教示する機能を持つ。

 

フィクションが人間の価値観や世界観に与える影響は計り知れない。

 

表現の自由」論で出てくる、「表現から影響を受けた人が行った、あるいは行いそうな悪い行為を理由に表現を規制してはならない」という理論は、表現が無力だからカウントしないのではなく、表現の受け手の人格の自律性を認めるがゆえに因果関係を遮断する理論にすぎない。

 

その子供たちがたくさん観ている『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』の予告に、あるイジメをめぐる事件について、母親、新任教師、子供たちのそれぞれの目線から容赦なく描く是枝裕和監督の『怪物』をぶち込んでくるのだから容赦ない。笑

 

『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を観た子供たちは是非、是枝裕和監督の『怪物』も観て欲しい。笑